丸格建築 3代の話
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〜格二の回顧録〜
1912年
大正元年 |
次郎 15歳 『大正天皇即位(11/10)、明治45年より改元』 山中湖、長池村の人であった峰佐ェ門としゅんの間に2男として生まれた次郎(じろう)は、15歳で大工をしていた母方のおばの家に弟子入り。 修行は厳しいものだったが、生来の器用さと几帳面な性格の次郎は、大工に向いていた。 後に、「丁寧な家づくりでは、右に出るものはいない」という評判をとるまでになる。 当時の大工は、家づくりだけでなく、船作り(鯉、鰻、わかさぎ漁のための和船)なども請け負った。 船作りは、できの良し悪しが命に関わる仕事で、特にわかさぎ漁は早春の産卵期が漁の盛期となるため、船には寄せる氷を破氷する強さが求められた。「次郎 の作る船は、水がもれないし頑丈だ」と聴いて注文が集中し、他の大工が船作りをやめてしまったという話もある。 一朝一夕には、職人として一人前になれないのは今も昔も同じだが、次郎の時代は親方が仕事を教えるということは皆無で、弟子は親方の仕事を、見て盗んで覚えた。 「(仕事は)一つも教えてもらえなかった。ぜんぶ見て覚えた」と後年に次郎が語ったことが、印象深かった。 次郎の几帳面さを表すおもしろいエピソードがある。 後年親方となった次郎は、髪型が思うように決まらないと気分が悪くなり、ついにふて腐れて、現場に行かないこともあったという。大工は〔おさまり※〕というものにこだわるが、次郎は自身の〔おさまり〕も仕事同様にゆずれなかったということか・・・? ※おさまり=仕上がり具合 |
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1927年 昭和2年 |
次郎 30歳 『リンドバーグ、大西洋単独無着陸横断飛行に成功(5/21)』 2代目 格二(かくじ)誕生。 |
1940年
昭和15年 |
次郎 43歳、格二 13歳 『日独伊三国同盟(9/27)、翌年真珠湾攻撃(12/8)により太平洋戦争始まる』 たむら亭 次郎は近在の大工6~7名と共に、別荘【たむら亭】を建築。 【たむら亭】は、ケヤキの丸太柱(大黒柱)、梁にはマツの通し梁、屋根はかやぶきという田舎風の作りながら、床材に藤ノ木を使うという高級な仕様の瀟洒な別荘であった。華族の注文によるこの建物は、現在も同じ場所に建っている。 この建物に使うケヤキは、湖の向こう岸(富士山のすそ野)から切り出して、湖に浮かべて日中の南風に運ばせる。1~2週間をかけてこちら岸に着けてから、50メートルの崖を引っ張り上げて使ったという手を掛けたものだった。 旧い家の梁には、‘ちょうなのけずり後’が見て取れる。当時の整版はいい加減なことが多く、大工は寸法合わせに苦労をした。【たむら亭】の梁にも、次郎たちの苦労の後が残っている。 |
1944年
昭和19年 |
次郎 47歳、格二 17歳 『日独伊三国同盟(9/27)、翌年真珠湾攻撃(12/8)により太平洋戦争始まる』 私(格二)は、次郎の跡継ぎとして大工になるために、親方をとって平野村へ丁稚にでる。 |
1945年
昭和20年 |
『太平洋戦争 終戦(8/15)』 |
1947年
昭和22年 |
次郎 50歳、格二 20歳 『日本国憲法施行(5/3)』 次郎と私(格二)は、親子二代の大工・船大工として共に仕事を始める。 昭和15年以前(戦争以前)には別荘の注文もポツリ、ポツリとあったが、時節柄それもなくなり、主に家の普請で生計をたてる。 |
1952年
昭和27年 |
次郎 55歳、格二 25歳 『連続放送劇「君の名は」放送開始(4/10)』 次郎、没。 屋台骨を失い、さらに戦後良くなりかけた景気もこのころから失速を始めたため、生活は苦しさを増していく。地元の人の協力で、仕事を繋ぐ中から「真面目に仕事をする大切さと人のありがたみを感じた」。 |
1957年
昭和32年 |
格二 30歳 『東京だよおっ母さん/島倉千代子(4月発売)』 3代目 廣樹(こうき)誕生。 |
1960年
昭和35年 |
格二 33歳、廣樹 3歳 『ジョン・F・ケネディ,35代米大統領に(11/8)』 池田内閣の所得倍増計画が発表されたこの年、高度成長の只中にある東京の企業は保養施設の〔寮〕を山中湖に求め始める。 〔寮〕を訪れ、山中湖の自然に魅せられた人たちにより、別荘の建築注文が増えていく。 <讃美ヶ丘>、<芙蓉台>といった別荘用の分譲開発も本格的に始まった。 段々と形は整ったが、決して平坦な道のりが待っているわけではなかった。 今もそうだが、当時の別荘は高級贅沢品。当然、施主と一緒にやってくるのは一流の設計士達。 この人たちに、教えられまた鍛えられた。 最初は図面が読めなかった。(昔からの大工は図面なしで、家が作れた) 「これは、なんですか」、「ドアです」。 「これは?」、「階段」。といった調子だった。仕事に夢中になり図面をポケットにいれたまま雨の中を飛び回り、図面をすっかり濡らして読めなくしてしまい、「2度と図面は出さない」と設計士に叱られたことがある。 |
1973年
昭和48年 |
格二 46歳、廣樹 16歳 『第4次中東戦争に端を発する、石油危機』 別荘建築は盛期を迎えて、年間30棟以上を棟上するまでになり、弟子も17~8人となったが、私(格二)は棟梁のままだった。 設計事務所や仕事関係先と取り交わす請求書や領収書が個人のままでは都合が悪いということで、会社組織にすることになり、自らの〔格〕の字に和を表す〔丸〕をくわえて、〔丸格建築〕と屋号をきめて社長と呼ばれるようになった。 別荘の注文も凝ったものが増えてきた。 差し金を一度も使わずに作らなければならなかった、バナナハウス。楽器の形のペンション。円柱の形をした別荘。近代化する建築に遅れを取ってはなるまいと思った。 昼間は現場を監督して飛び回り、夜は図面を引くために手作りのドラフターにしがみつく。大変な日々の連続に、息子の年の数ほど胃潰瘍をかかえた。 しかし、仕事があるありがたみを知っていたから、お客様の前では自然と笑顔になった。 |
1983年
昭和58年 |
格二 56歳、廣樹 26歳 『千葉県浦安市に東京ディズニーランドが開園(4/15)』 建築家を志して、三興建設(東京都新宿区)で研鑽をつんだ廣樹が帰郷、丸格建築に入社。 かつての次郎と私(格二)のように、再びの父子船。 |
1990年
平成2年 |
格二 63歳、廣樹 33歳 『第4次中東戦争に端を発する、石油危機』 廣樹、丸格建築の社長に。 幼いときから大工の仕事を見て育った廣樹にとって、建築家になることは素直に受け入れることができた未来。だから自然に努力も出来た。早くに一級建築士の免許も取った。 親子2代で勤めてくれている大工も多い会社で、信頼を得るには、誰よりも仕事に一生懸命に取り組まないとならない。職人にごたくを並べても通用しないことは、端からわかっていた。 3代に渡って向き合ってきた、山中湖の自然。風光明媚なところは、厳しい自然環境のところが多いものだ。 廣樹は、これを前向きに利用しようと考えた。OMソーラーハウスに着目したのは、単なる思いつきではなく、彼自身を育んだ環境があってこそのものである。近年、街中での住宅建築の注文も増えてきている。OMソーラーハウスの別荘も人気が出てきているし、以前につくった別荘の補修依頼なども多く、「大事に使っていただいているな」と感謝する。 「長く、長く使っていただきたい。世代を超えて使っていただきたい。そして、語り継ぐ物語をたくさん生み育ててほしい」・・・と思う。 |